第2章|挫折から生まれた小さな一歩のはじまり
美術との出会い、そして挫折
高校三年生にあがるとき、進路のことを考える。
「漫画を描くなら美術系が役にたつよね」なんていう安易な考えで、経済学部から美術科へ進路を変更。美術部へも入部する。
美術には全く興味がなく、絵を描いた経験は幼少期の町のイベントと授業だけ。
画家の名前も知らない、どんな表現方法があるかも知らない、もちろんデッサンをしたこともなかった。
美術部顧問の先生が広島市の画塾(美術系の予備校)を紹介してくれて、週末だけ2時間かけて友だちと3人で通った。
遅すぎるスタートだったけれど、3人でガタンゴトンと揺れる在来線に乗って行く道中は楽しかった。
画塾には眼鏡をかけた変わった先生がいた。
夏になると先生が下駄を履いてやってくるので、カランコロンという音が背中に近づいてくるにつれ緊張感が増した。石膏像に向かいデッサンをする私の後ろに止まると心臓が止まるような気がした。
「それ持ってちょっと下に来い」と言われたら、死刑宣告。教員室でコテンパンに酷評され、泣いて帰るハメになる。
絶対に合格するだろう、と言われた前期受験。
合格発表の日に、先生はわざわざ大学まで来てくれた。
3人で意気揚々と掲示板まで向かうも全員見事にごっそりと番号はない。落ちたのだ。
暗い顔で戻る私たちに先生も驚いた。
その後、1人は別の大学へ、1人は後期で合格、私は滑り止めで受かっていた美術系短大を蹴って浪人することにした。
志望大学を選んだのは、美術部の顧問の先生に勧められたから。自分が行きたかったわけではなかった。
だけど、意地になって滑り止めの短大を蹴った。
なぜそこまで執着したのか。
きっと私は、あきらめたくなかったんだと思う。
「この大学に行く」そう決めて頑張ってきた過程があったからこそ、簡単に目標を手放すことはできなかった。
絶対に合格すると高をくくっていた。
だから、どこかで「この程度頑張れば大丈夫でしょ」という自分が居たんだと思っている。
実際、夏休みに毎日美術部の教室でデッサンをしていたが、私はいつも寝坊して遅刻していた。
顧問の先生に注意されても「なんでそんなこと言われなきゃいけないの」くらいにしか思っていなかったんだ。
受験に失敗した夜、目が覚めて両親のいる1階に降りるとドアの向こうで話声が聞こえた。母が「初めての挫折ね」と私を心配していた。
その「挫折」という言葉が自分を否定されたような気持ちになりものすごく悲しくて、今でも鮮明に覚えている。
この経験が、「極限まで努力しなければ結果を手に出来ない」という信念になり、今でも私を形づくる大きな要素になっている。
時に過重な努力を自分に強いてしまうようなこの強い信念があるから、いつだって目標に対してひたむきでいられる。
この「挫折」の時のような気持ちには絶対にならない。後悔なんてしない。この先の私をつくるのは今なんだと、目の前のことに真摯に向き合う力になっている。
私を一番傷つけた先生がくれた大切な言葉
画塾の下駄を鳴らす先生のことが、怖かったけど好きだった。
大学に上がったら絵画を勉強したいと思っていたけど、怖い先生がデザイン科だったので画塾ではデザイン科に在籍した。
他人から見たら支離滅裂な選択だけど、私が選ぶ基準は「人」だった。
「何を」ではなく「誰と」一緒に居たいかが重要だった。
先生は感情を隠さない人だった。
気に入らないことがあれば大人げなく乱暴な言葉を投げつけるし、平気で私を傷つけた。
同じ画塾の友だちはそんな先生のことが好きではなかったけど、私はなぜか先生が好きだったし信頼していた。
それはなぜだったのかと考えても今ではよく思い出せない。
けれど、思い返してみれば私がいつも傍にいることを選ぶ人は、自分の意見や意志をきちんと持っていてそれを隠さない人ばかりだ。
そして、その考え方や感性に私自身が「面白い」と興味を抱いている。
「この人から学びたい。この人の傍に居れば何かが得られる」という直感のようなものを感じていたんだと思う。
毎日朝6時に家を出て、2時間かけて画塾に通った。
施錠されたドアの前の階段で座って待っていると、学長が来て鍵を開けてくれる。2階に上がって掃き掃除をする。
イーゼルに画板を立て、誰よりも早く石膏像に向かいデッサンをする。そんな1年。
挫折から得た信念に従い、この努力を続ければ、きっと目標は叶うと信じていた。
受験が近づくと現役生たちがどんどんうまくなる中、自分は全然前に進んでいないような気持ちになり病んだ。
先生にもいつもボロカスに言われていた。
どうにもこうにも心を保つことができなくなって、受験の3日前に突然画塾を休んだ。
そして受験前日、いつも通り朝一番に画塾に行き掃除をして石膏像に向かいデッサンをした。
後から来た先生に教員室に呼ばれ「ちゃんと来て安心した」みたいなことを言われながら一枚の紙きれをもらった。
そこには『ひらきなおーる【開き直る】急に態度を改めて、正面切った物腰になる』と筆ペンの汚い字で書かれていた。
「ここまでやってきて、ここまでの力しかないんだから。もうこれでやるしかない、いい意味であきらめをもつこと」みたいな意味を説明された。
紙切れをもらった時、私はその意味をまだ消化できていなかった。
だけど、自分の実力は所詮この程度だといい意味であきらめることで、怖くてたまらなかった受験と向き合う勇気をくれた。
「やるだけやった。今できることをする。ただそれだけ」
この先、先生がくれた言葉を思い出して一歩を踏み出した経験は数えきれない。
いつだってチャレンジする私の背中を押してくれる。開き直るは、勇気をくれる魔法の言葉だ。
挫折から生まれた「極限まで努力しなければ結果を手に出来ない」という信念は、いつも目の前のことにひたむきに向き合う姿勢になり、先生がくれた「ひらきなおーる」の言葉は、今できることを持ってチャレンジしながら前に進む勇気をくれる。
努力があるから勇気が出る、勇気があるから怖い気持ちも抱えて前に進める。
そうしてもらった「努力」と「勇気」を抱えて迎えた2回目の前期受験で、無事に志望大学へ合格した。
忘れられない披露宴
大学生になってすぐに結婚式場でアルバイトを始めた。
画塾の先生が浪人時代に結婚し、携帯で録画した出産映像を見せてくれた。
その映像は私にものすごいインパクトを残し、結婚っていいな、子どもが生まれるって感動的なんだなと感じた。その影響でアルバイト先に結婚式場を選ぶ。
赤面症だった私は、人前で挨拶をするとゆで蛸みたいに赤くなっていたし、アルバイト仲間と積極的にコミュニケーションを取るようなタイプでもなかった。
ただ、目の前のお客様と話したり、お客様の求めていることを察して提供してあげたりすることは得意だった。
物事を順序立てて考えることも得意だったので、どうすればスムーズに料理を進行できるのかを常に考えて動いていた。
だから、私のテーブルはいつも他のテーブルよりも綺麗だった。
そんな風に、ただ目の前のお客様に向かって目の前の仕事を一生懸命にしていたら、仕事を始めて半年ほどでリーダーという進行管理と新郎新婦の誘導を行う役職へ抜擢される。
そこで大学を卒業するまでの4年間、スタッフへの指示出しや実際の進行管理、司会者など各種関係者へのキュー出し、などなど、社員と変わらない大きな責任のある仕事を担っていた。
人前で話すことが苦手な私にとって、この仕事はとても大きな負担だったし失敗ばかりで泣いて帰る日も山ほどあった。
けれど、リーダーとして過ごした4年間は、テーブルスタッフとして働いているだけでは関われないたくさんの人とのつながりができた。
そのたくさんの人たちが披露宴を無事に終えるというひとつの目標に向かって一致団結してつくる空間は、他にはない一体感があり、まるで部活動のような団結力があったし大きなやりがいだった。
アルバイト時代で特別忘れられない思い出がある。
それは、まだ私がテーブルスタッフだった時のこと。
進行も順調で料理もほぼ終わっていた。
最後の余興がはじまって、宴会担当の社員さんが「手を止めてもいいからみんな出ておいで」と声をかけてくれた。
会場に入ると、新郎新婦がダンスを踊り、ゲストが手拍子をしていた。
会場の端にズラっとスタッフが並び、みんなで合わせて手拍子をした。
全員がその幸せの空間に居た。そして、みんな笑顔だった。
あの時のひとつになった空間は今でも覚えているし、多分この先も忘れない。
ゲストもスタッフもみんなが同じ気持ちで喜び祝福し、みんながひとつにつながっていた。本当に幸せに満ち溢れた時間だった。
この時の感動が忘れられないのは、私にとって「人の心がひとつにつながる」ということがとても重要だからだ。
お互いに違うもの同士がどうしたらひとつにつながれるのか、関わるすべての人が心地よい状態であれるのか。
これから社会人になっても、そして今も変わらず目指している、土台にある想いだ。